2007年05月23日
電子回路1
私の実家の私の部屋は、北側の6畳の部屋で、家族はこの部屋を、「北六畳(きたろくじょう)」と呼んでいた。弟と一緒に使っていた時期もあるが、ほぼ私の部屋であったと思う。
さて、自分の部屋では何かと親にかくれてやるものである。私が隠れてやっていたことは、電子回路作り、つまり、ハンダごてで抵抗やらコンデンサやらを基盤にハンダ付けしていくという、アレである。母親が部屋に入ってくる直前、本などで隠すのだが、ハンダのにおいでばれる。
「またそんなんやってー!」
これでしばらくは製作ができなくなるわけだ。別に禁止するようなことではないのに、それではなぜ電子回路作りを母親が好まなかったと言うと、ハンダごての電源を入れっぱなしにして、火事になることを恐れていたからだ。ちなみに、これは小学生の頃の話である。
さて、話はとび、高校の頃となる。トンカツ屋からのバイト収入があったので、秋葉原で数万円分のパーツを買ってきた。これは、自分の部屋を宇宙船/ラボのようにするためのものであった。電子回路のキットで面白いものがあって、カードリーダー(光学式なのが痛いが)と暗証番号入力のものを買った。両方ともリレーをドライブさせるものだ。部屋のドアの右側に、これらを埋め込みんだユニットを設置した。
ユニットと簡単に言っても、キットは基盤及びキーパットだけなので、他はすべて作らなければならない。写真がないのが残念だが、プラスチックのボックスを加工して作った。そして、壁にドリルで穴を開け、屋根裏に入り、壁と木の間の隙間に磁石をつけた糸を垂らし、穴からも糸をつけた磁石を入れ、上からの糸を穴から取り出して配線用の銅線を結び、屋根裏に戻って糸を引き、銅線をたぐりよせた。
さて、カードリーダーにカードを通す→暗証番号を入力 この次は何が来るかと言うと、リレードライブの回路だ。そしてその回路は、ソレノイド及び赤と緑のランプにつながっている。ソレノイドはドアの鍵の役目を果たす。ドアは実は引き戸で(しょぼいなぁ)、ソレノイドに通電すれば、開錠(棒が持ち上がってドアがフリーになる)、電流を停めれば施錠(棒が落ちてくる、このとき、ドアが閉められていないと、棒が床に落ちるというみっともないことになる)、というわけである。
廊下から見ると、ドアの右にカードリーダーと暗証番号入力用のパッド、ドアの上には、赤と緑のランプユニットがあって、今は赤が点灯している。カードを通して暗証番号を入力すると、ランプが緑に変わると同時にドアが開錠、中に入ることができる。中に入ると、施錠、開錠のボタンがあって、好きなときに施錠、開錠ができるというわけだ。
こんなものをよく設置させてくれたと、親に対して思う。カードリーダーのユニットと、赤と緑のランプユニットは、ドリルで壁に穴をあけて配線を行い、その後壁に固定したのだから。夜には、息子の部屋の前で怪しく光る赤いランプが嫌でも目に入るのだ。私も私で、トイレに行くたびに施錠・開錠していた。言い忘れたが、外からはボタンを押せば施錠が可能だ。
うちには猫が3匹いるので、洗濯物を干すときなど、猫を私の部屋に閉じ込めておくのにこのシステムが利用できると母に説明を行ったが、どうも使われなかったようである。そしてそのうち、私も使わなくなってしまった。高校2年の冬の話である。
さて、この前実家に帰国したとき、システムが忽然と消えてなくなっていた。どうやら、壁のリニューアルを行ったらしく、業者が、「なんでこんな変なものが壁に設置されているんだ、この家は・・・」と不思議がっていたそうである。
投稿者 cgoma : 23:50 | コメント (0) | トラックバック
2006年07月06日
そろばん塾
夜な夜なSと長話をしてしまうことがあって、今日は小学校のことなどを話した。
Sと比べると、私は随分違うなぁと思う。彼女の場合、放課後は男子に混じってサッカーや野球をして楽しんだらしいが、私の場合、放課後は弱気な生徒を誘って、近道して帰ったり、どんないたずらをしたら面白いか考えたりと、スポーツとは無縁であった。
過去のことを思い出さないといけないなぁ、と最近思うようになって、ふと思い出したのが、通っていたそろばん塾。わかたび珠算塾というのだが、教室がなんと、パーマ屋の待合室だった。
私の母は教育熱心だったので、私の友人で勉強の出来る子の母親に勧められるがままに、私は珠算塾に入塾させられた。おそらく、小学校4年生頃だったと思う。そろばんをやっていると、暗算が得意になるし、学校の算数でそろばんを使う授業があるので、そのときに困らないように、との母の配慮があったのだと思う。
で、その塾だが、私の実家の近所に、「おかむら美容室」というおんぼろ美容室があって、そこで授業が行われていた。この美容室、外見が非常に興味深い。便所はボットンで、地下に埋められたタンクから、直径30センチぐらいのパイプが、地上に斜めに突き出しているのだ。私は何度このフタを開けようと思ったことだろう(実際、開けたことがあったかもしれない)。ちなみに、汲み取り屋はこのフタを開けて、中の汚物をホースで吸い出す。
美容室は、入るとまず靴を脱ぐ。椅子は3つぐらいあって、真ん中の椅子の真後ろに、廊下へとつながるドアがあった。その廊下を進むとボットン便所、途中、左側に6畳ぐらいの畳の部屋があった。この部屋に、学校などによくあるような机と椅子が、長方形に並べられていた。今思うと、何が楽しくてこんなところでパチパチそろばんなんか弾いていたのだろう、と思ってしまう。ひどいときは、入ると、おかむらさんが、どっかのババアのカットをしている最中、ということも度々あった。
生徒は、私の友人とその姉、美容室の娘、私が高校から通いだしたピアノ教室の息子(授業料の滞納が続いていた)、そして私、であった。教師は、車でやってきて、時々遅刻していた記憶がある。彼はそろばんは出来るのだろうが、なぜか知的な感じを全く受けない男だった。子供会(地域の親子による交流会)の遊園地の遠足か何かの話になった時、女子生徒に、ブラジャーの中に5千円ぐらいのお小遣いを隠し持って行けばいい、とか言っていたっけ。
入塾して1年ぐらい経って、私の弟も入塾することになった。その時、一緒に別の生徒も入ってきて、その子が鼻血を出したときのことである。こともあろうか、教師はその子の後頭部を何度も叩いていた。鼻にティッシュを軽く詰めて、うつむくようにしていればいいのに、とは私は言い出さなかったが、馬鹿だなぁとだけ思っていた。
この小学生の身で、毎週何回かこんなボロ美容室の待合室で、パチパチやっている自分を思い出すと、なんと主体性のない人間だったか、と思わされる。親の言うなりに通い、出来る子を演じ、終わったら「さようなら」と言って帰る。それの繰り返しである。
こんな変化のない毎日に希望を与えてくれたのは、私がしでかすいたずらだったのかもしれない。とある日、私は一番で教室に着いたので、蛍光灯のグローランプをちょっとばかしずらしておいた。今でこそインバーター方式が主流になり、グローランプがない照明器具は多くなったが、当時、蛍光灯の照明には、グローランプというものが必要だったのだ。これが駄目になると、蛍光灯は新品のものでも点灯しない。
で、ほかの生徒と教師がやってきた。案の定、教師は蛍光灯がだめになったと思い込んだ。記憶が確かではないが、2本中、1本のグローランプをずらして、薄暗い教室で授業が始まったのだったと思う。もしかすると、真っ暗で授業が中止になった、だったかもしれない。このことを家で話すと、父が次の授業のときに、私がずらしたグローランプを元に戻しに来た。教師は、「これが原因だったんですね、どうもありがとうございます」などと言っていた。ばか。
まあ、そんなこんなで続けてはいたのである。しかし、もうやってられなくなってきた。そろばん自体、全く面白くないのである。家にはワープロがあって、私はマニュアルを見ながら、父でも使いこなせない機能を覚えていったりして、そっちの方が断然面白かった。小学校で、劇の台本はワープロで作ったし、個人の新聞の作成なんかも、実際の新聞をまねてワープロで作っていたりしたのだ。私の母は、このあたりで間違いを犯したのだと思う。そろばんなんて、とっととやめさせて、当時はよっぽどのことがないと持つことのない、パソコンでも買い与えていればよかったのだ。
私は、そろばんをやめたくて仕方がなかった。父は無関心なので、母をどう納得させるかが焦点となった。私は事あるごとに、そろばんがこれからの時代役に立たないこと、スーパーなんてみんなレジだし、八百屋か何かにでもならない限り、将来、そろばんを使うことなんてないということ、暗算ができるからといって、格段有利ということはないということ、などを挙げて母を説得しようとした。しかし、うまくはいかなかった。私の友人の母親に誘われて私を入塾させ、私がその子に追いつくこともなく、辞めさせてしまうことに抵抗があったのだろうか。
そんな時である。塾教師が、これからは塾本部で授業をすると言い出した。本部は車で片道20分以上かかるところにあって、教師は最近ミニバンを買ったというのだ。そろばんで儲けた金で、である。実際、1回行ってみたが、なるほど、きちんとした塾であった。こっちはパーマ屋の待合室である。本部にはパソコンもあって、算数が学べるようなプログラムが入っていたと思う。どうせやらなければならないものなら、環境のいい場所でやったほうがいいに決まっている。だが、教師の車で移動、というのは面倒に感じられた。
ところが、これが母への最後の一押しとなったのだ。母が言うには、近いところでやっているから、通わせたのに、毎回送り迎えで40分も車に乗せるなんて、危なくてやってられない、ということだった。私のおばが家に遊びに来ていたとき、おばは私の考え(そろばんが将来役に立たないこと、これからはパソコンなどの時代になるということ)に大賛成で、この送り迎えが決定打となって、遂に母は退塾の許可を出したのだ。この日、お祝いということで行ったレストラン「しもつけ」のハンバーグが、冷凍モノだったのか、クソまずかったのを鮮明に覚えている。
それにしても、今思えば、ダダをこねて休んだり、家を出てもフラっとゲーセンとかに行かなかったのは不思議だ。ちなみに、今ソロバンを弾けと言われても、足し算引き算はかろうじて出来ても、掛け算割り算はどうやってやるのか、思い出すことすらできない。